[ 潤子先生の小説・エッセイ ]
『父の遺産』
『父の遺産』
Personal(パーソナル)通巻第57号 発行:日経ホーム出版社
私の父は歯科医師であった。
母と結婚をして翌々年、開業する運びとなった。
新米医師のところにある日、金歯を入れて欲しいという患者が来た。
しかし、金を入れる資金がない。
父は母方の祖父に仕入れ金の借入れを申し込むよう母に命じた。
母は思案にくれたが大至急金を仕入れなくてはならない。
そこで思いついたのが自分の手のくすり指にはめられている金の指輪であった。
それをはずすとすぐ父に手渡した。
「とりあえず、この指輪をつぶして患者さんの金歯にあてて下さい」と─。
父は呆然とした。
母の実父は他人の保証人の印をついて家屋敷をとられ、その上実母が病弱で家計は火の車。
母はそんな状態のときに父のもとに嫁いで来たため、着のみ着のままで入籍したのであった。
母親がそんな娘を哀れんで自分の指にはめていた金の指輪を娘の指にそっとはめたのであった。
「あなたが嫁ぐというのに、これだけしか、してあげられなくて本当にごめんなさい」
と涙して渡したという指輪なのであった。
そんな大事な指輪をつぶしてしまってはお前のお母さんに申しわけがない、といってどうしても受け取らない父に、母はそっと呟いたそうである。
「こんな風にしてこの指輪が役立つんでしたらきっと母はよろこんでくれると思います」
父は頭を垂れて、その指輪を受け取ったという。―四十年後、母のくすり指に指輪は戻った―
こんな状態で新世帯をもち開業にふみきりつつ八人の子供を育てたのである。
その上使用人、しゅうと、小じゅうとに祖父母をかかえて、父母はくる日もくる日も働き通しの人生であった。
小学生二人、中学生二人、高校生二人に医大生二人、働けど働けど生活に追われっぱなし。
うち五人の男の子は、医大を卒業させるのが夢であった。
父は疲れる体にむちを打って働き通しての人生であった。
そんなある日、父は仕事場に入って背を丸め、何やら一生懸命である。
見ると金の一枚にハサミを入れ、カラス口のような道具でクルクルと丸めている。
まだ高校生ごろであった私は、父のその業に感心して見入っていたものである。
数時間後、父は満面微笑をたたえながら母を呼ぶのであった。
異様な雰囲気に戸惑いながら、でも母はうれしそうに父の申しつけ通り、右手を差し出すのだった。
さも得意気に、父はこう言った。
「長い間、大切な指輪を借りてたね。本当に大助かりしたよ。さあおかえしだ。
一流の宝石店のどの指輪よりも金が沢山使ってある。ありがとう」と─。
こうして、つぶされて患者さんの金歯にされた指輪がほぼ四十年後に、母のくすり指に戻ったのだ。
私はショックであった。
開業したときは確かに父の経済も楽でなかった。
しかし今は違う。八人の子供たちを全員大学を出す余力があり、父の望み通り男の子は四人も医者にさせたのだ。
もう経済的に昔と比較にならない程、楽になっている筈であった。
だったら心をこめたおかえしに、ダイヤの指輪でも買ってあげて欲しいと切に願ったものだ。
しかし父は平然と、自分の手で作った粗末な指輪をかえして”ありがとう”で済ましてしまった。―母にとって大切な指輪とはオパール?ヒスイ?ダイヤ?―
私の兄たちは一部始終を知っていたから、それでは子供たちからおかえしを、と、母の好みそうな指輪を兄妹それぞれが母に贈ったのである。
その度に母はからだ中でよろこびを表現しながら、まだまだ働き足りないので、働くために高価なアクセサリーは似合わないから、と、タンスにしまいこみ、夜更けて家中が寝入ってしまって静かになるころ、そっとそれらをひろげては、うれしそうに指にはめたり、はずしたり・・・・・。
そんな母の女性らしい仕草を垣間みるとき、実に眩しい光景として映ったものである。
そんなある日、私は母の元を訪れた。
二階で何やらさがしものをしている。
「どうかしたの?」と尋ねる私に、半べそかいたような顔をして、
「大切なもの、どこかに置き忘れてしまったの・・・」
「大切なものって・・・なあに?」
すかさず聞く私に母は右手をひらひらとさせながら、「ないのよ、一昨日晩から・・・」と涙声。
「言った通りでしょ。大切だ大切だとしまいこんで、たまにはめたりするからよ」
オパール?ヒスイ?ダイヤ?
多分、このうちのどれかを失くしたのだろう。
「どんなのを失くしたの?」と尋ねても、母の耳には届かない。
ただただ、失い失いと、いうだけなのだ。
私もしばらくの間一緒にさがしていた。
「どうしても見当らなければ、又何番目かの兄に買ってもらえば?」
私の言葉にはふり向きもせず母はさがし出すのに懸命であった。
その日、夜更けてから母から電話が入った。
「洗面台の上においてあったわ。おさわがせしてごめんなさい」
その時の様子を私は父に話した。父はそしらぬ顔して”あ、そう”のひと言だけだった。
私は気抜けがして、もう少し何とか父から言わせようと努めたが、次の瞬間には、もう父は次の仕事を手がけていた。
―「万が一のとき兄弟で」と父からことづかった木箱―
昭和五十二年、母は直腸がんで入院。
末期ですでに手のほどこしようがなかった。一生を共に過ごして来た最愛の伴侶に倒れられ、精神的なショックが大きかったのだろう。
日毎に口数が減っていった。
そんな折、父は私に大きな風呂敷包みを手渡して
「これはお父さんが万が一という時、八人の兄弟みんなに・・・・・」
とことづかって受け取ったそれは、大きな木箱でずっしりと重いものであった。
八人も兄弟がいて、どうして私があずかってしまったのか・・・。
その時は、何の意味もなく、あずかってしまった。
私はそれを父母の家の仏間の押入れの片隅にそっとしまいこむと、そのままそんなことも、そして、あずかったことすらも忘れてしまっていた。
母の病状は悪化の一途で苦痛の毎日であった。従って少しずつ変化していく父の様子など誰も気付きはしなかった。
ある土曜日の午後、母のお見舞いに何がいいだろうかと付き添う妹に聞くべく電話を入れた。
妹は父が自分の部屋に閉じこもったまま出て来てくれないのだと心配そうな声。
私は取るものも取りあえず、とんで行った。
うす暗くなりかけた部屋の片隅で新聞紙をひろげ、ボール紙にハサミを入れて一生懸命何かを創作中である。
私はそっと父の背後に近づいていて、その創作物ののぞきこんだ。
「なーんだ。ただ細長く刻んでいるだけ・・・・・」
と、思った。
そして妹を呼びそのことを告げた。妹はおっかなびっくり、へっぴり腰で
「全然お話してくれないのよ」と、父を指す。
「え?」と、大げさに驚いてみせる私─。
妹にそう言われてから私は父の背後から、そっと声をかけた。
「お・と・う・さ・ん・・・・・」「・・・・・」もう一度
「お・と・う・さ・ん・・・・・」「・・・・・」やはり返事がない。
妹は”そうでしょ。私の言う通りでしょ”と、今にも泣き出しそうな、不安気な目で私にすがってくる。
“いつからこんな風に・・・・・”と、私は押し殺したような声でつぶやく─。
―「お・と・う・さ・ん」父は手の届かない人になってしまったのか―
“おとうさん!おとうさんの大好物の五平もちよ。私が一生懸命に作って来たものなの。
お願いだから食べてよ。うれしそうな顔して私といっしょに食べてよ。おいしいぞ!って言ってよ・・・”
私は心の中でこう叫びたかった。父は無反応だ。
私は体中から血の気のひく思いだった。
私の頬に冷たいものがつたう。ただ黙って父の姿をみつめるだけだった。
この広い背。丸みのあるあったかな肩。子供の時分から、この父の厚くて広い背に、よくとびついておんぶをして貰ったものだ。
そのことは、まだほんの数年前まで続いていた。それなのにもうずい分と長い歳月が去ってしまったように思われる。
「お・と・う・さ・ん!」
私は、そっとそっと・・・・・もう一度だけ呼んでみた。
父からは相変わらず何の反応もなかった。心なしか耳だけがピクッと動いたような気がした。
それは神さまの戯れだったのかも知れなかった。
父の背後からそっとよりかかってみた。あったかい・・・・・。
ふとしたことから父が、とても遠くに行ってしまって、私たちにはもう手の届かない人になってしまっているような気がした。
いえ、その反面、そんな父が私たち子供のおぼつかない胸の中にきゅーんと入りこんできてくれたようで、とても身近な人になってしまったような・・・・・。
この二つが錯覚となって、私の脳裡をせわしく行きつもどりつしていた。
―ボール紙の指輪。母は父に向かって合掌する―
父がふーっと一息入れたような素ぶりを見せたのをきっかけに、私はからだを乗り出すようにして父の創作物をみた。
瞬間、私は息をのんだ。
父の掌の中に、丸い小さなものがころがっている。
よく見ると純金ならぬ、ボール紙で作られた指輪であった。
掌の中にころがるその指輪を目を細めてながめている父は、長い人生を、子育てのために働き通した頑強な父のいかめしさはなく、邪心のない仏さまの如く慈愛に満ち満ちていた。私はフーッと涙がこぼれそうになる。
そんな私など意識の外らしく、私の座っている横をつかつかと前に進み、夕闇の迫る部屋を斜めにつっきり母の伏す部屋へと急ぎ足である。私もいっしょに、あとに従った。
母親が寝ている赤ん坊を抱き起すような仕草で、父は母を抱きかかえるようにして起こしたかと思うと、その母の前に父は正座をするのであった。私はぐっと胸がつまった。
父の動作につられて、私までも、思わず正座をしてしまっていた。
おもむろに母の右手をひき、くすり指にボール紙で、今創りあげたばっかりの指輪をはめるのであった。
以前、父の手で創りあげられた純金の指輪の上に又、今度はボール紙で創られた指輪が母の指の上に重なった。
母は苦しみに顔をゆがめながら・・・・・、父に向かって合掌をするのであった。
母の頬を幾筋かの涙たつたって落ちた。父の背の陰で私は嗚咽していた。
父の働き通した一生は、たった一個の母のつぶした指輪で支えられていたのだ。
エメラルド、ヒスイ、ダイヤ・・・・・。
これらのどんな高価な指輪を息子たちから買って与えられても、父の血と汗で得たお金で、そして父自らの手で創られた
指輪の方が、母にとっては比較にならぬ程に高価なものであったのだ。
その昔、初めて父が手製の不恰好な指輪を母に”ありがとう”と言って返すのを見たとき、経済的にゆとりが出来たんだから、すばらしい宝石を買ってあげたらいいのに、と、娘心に大変なショックを受けた自分の、何と浅はかなことであったか・・・・・。
私は恥ずかしくて父の背で血の気をなくしていたものであった。
私はそっと部屋を出た。
すっかり夜の帳に包まれた庭先に立って、夫婦の愛、そして愛そのものの神髄を見た思いであった。
五十三年三月、明日消えるかも知れない母を残して、突然に父は他界した。
残された母は、父の棺をみてただただうつむいて無言の涙を流していた。
声が出ない程の悲しみに耐える母の姿を、私は凝視出来なかった。
父の死を境に母は意識を失っていった。
生はありとても、精神的に父と共に灯を消したかのように、二度と意識を戻さぬまま、父より半年後の九月二十五日、迎えられるようにして母は逝った。
―四十六年分の古新聞が教えてくれたこと―─日付はみんな九月二日―
一週間後、私は父が自分に万が一のことが起きた場合に、と、私に手渡したふろしき包みのことを思い出し、残された子供たちでその包みを開けてみた。
中身をみて八人が顔を見合わせて呆然としていた。
大切そうにしっかりと包まれた木箱から、どっさりと新聞紙が顔を出したのである。
上から下まで、木箱の中身はびっしりの新聞紙であった。
そのうち誰かがぽつりとつぶやく。
「これを包んだ時、若しかしたらおやじ・・・・・。痴呆症が始まっていたかも・・・・・」と─。
誰もが複雑な気もちのまま、再びその箱は、もとの棚の上におさめられてしまったのだ。
それから数年が経った。
私は父母の写真の前で合掌するたび、この夫婦にまつわる指輪のことを思い出した。
今、こうして在る私たちも、たった一個の指輪が育ててくれたような気がして頭が下がる思いなのである。
そんなとき、ふと私は父がどっさりと残した新聞紙のことを思い出していた。
“若しかしたら・・・・・”
私は次の瞬間固唾をのんでいた。
電話にとびついて妹のところにダイヤルを回していた。
「大至急、木箱の中の新聞紙をひっぱりだして頂戴!ひょっとしたら、日付が全部統一してない?」
私の異常な声に妹までつられてオロオロとして
「どれもこれも・・・・・、全部九月二日──」
それを聞いて私はその場にへなへなと座りこんでいた。
「ねえ、こんな古新聞がどうしたの?」受話器の向こうで妹の声が同じ言葉を繰り返していた。
大好きな父上へ
いつかお元気なころ、私に残して下すった新聞紙の意義が、たった今、その鍵が解けました。
母上の形見の指輪をどんな思いで金歯に変えられたことか・・・・・。
お察しをしながら、四十六年分の新聞をひもといています。
九月二日・・・・・が、その日なのですね。
直感でした。
私も父上の血を分けて頂いた子供でしたね。だって父上の心情が読めたんですもの。思いっきりほめて下さい。
父上の亡きあと、遺産相続のことで骨肉のあらそいなんて起こさぬように・・・・・、と。
母上の大切な小さな指輪一個で立派な八人が育った貴さを教えて下さったんですね。
さすが父上だと敬服致しました。
どんなに高価なダイヤの指輪よりも心のこもった手作りの指輪が素晴らしいのと同じように、どんな多額な遺産よりもこの古新聞の方が貴いのだという真ごころ─。
私たちは父母上のもとに生を受けたことの幸せを神に深く感謝したい気持ちで一杯です。
父上から頂いた沢山の財産、とうてい、私一代では使い切れません。
息子たちにゆずれば、そのご恩の分だけ・・・・・、ふやしてくれそうで、うれしい悲鳴です。
ほら、耳を澄ましてみて下さい。
聞こえますか?幼いころ、父上といっしょに吹いた葉笛の音─。
その音の下で、叱られてすねて佇む私がそこにいませんか・・・・・。潤子より
私の父は歯科医師であった。
母と結婚をして翌々年、開業する運びとなった。
新米医師のところにある日、金歯を入れて欲しいという患者が来た。
しかし、金を入れる資金がない。
父は母方の祖父に仕入れ金の借入れを申し込むよう母に命じた。
母は思案にくれたが大至急金を仕入れなくてはならない。
そこで思いついたのが自分の手のくすり指にはめられている金の指輪であった。
それをはずすとすぐ父に手渡した。
「とりあえず、この指輪をつぶして患者さんの金歯にあてて下さい」と─。
父は呆然とした。
母の実父は他人の保証人の印をついて家屋敷をとられ、その上実母が病弱で家計は火の車。
母はそんな状態のときに父のもとに嫁いで来たため、着のみ着のままで入籍したのであった。
母親がそんな娘を哀れんで自分の指にはめていた金の指輪を娘の指にそっとはめたのであった。
「あなたが嫁ぐというのに、これだけしか、してあげられなくて本当にごめんなさい」
と涙して渡したという指輪なのであった。
そんな大事な指輪をつぶしてしまってはお前のお母さんに申しわけがない、といってどうしても受け取らない父に、母はそっと呟いたそうである。
「こんな風にしてこの指輪が役立つんでしたらきっと母はよろこんでくれると思います」
父は頭を垂れて、その指輪を受け取ったという。―四十年後、母のくすり指に指輪は戻った―
こんな状態で新世帯をもち開業にふみきりつつ八人の子供を育てたのである。
その上使用人、しゅうと、小じゅうとに祖父母をかかえて、父母はくる日もくる日も働き通しの人生であった。
小学生二人、中学生二人、高校生二人に医大生二人、働けど働けど生活に追われっぱなし。
うち五人の男の子は、医大を卒業させるのが夢であった。
父は疲れる体にむちを打って働き通しての人生であった。
そんなある日、父は仕事場に入って背を丸め、何やら一生懸命である。
見ると金の一枚にハサミを入れ、カラス口のような道具でクルクルと丸めている。
まだ高校生ごろであった私は、父のその業に感心して見入っていたものである。
数時間後、父は満面微笑をたたえながら母を呼ぶのであった。
異様な雰囲気に戸惑いながら、でも母はうれしそうに父の申しつけ通り、右手を差し出すのだった。
さも得意気に、父はこう言った。
「長い間、大切な指輪を借りてたね。本当に大助かりしたよ。さあおかえしだ。
一流の宝石店のどの指輪よりも金が沢山使ってある。ありがとう」と─。
こうして、つぶされて患者さんの金歯にされた指輪がほぼ四十年後に、母のくすり指に戻ったのだ。
私はショックであった。
開業したときは確かに父の経済も楽でなかった。
しかし今は違う。八人の子供たちを全員大学を出す余力があり、父の望み通り男の子は四人も医者にさせたのだ。
もう経済的に昔と比較にならない程、楽になっている筈であった。
だったら心をこめたおかえしに、ダイヤの指輪でも買ってあげて欲しいと切に願ったものだ。
しかし父は平然と、自分の手で作った粗末な指輪をかえして”ありがとう”で済ましてしまった。―母にとって大切な指輪とはオパール?ヒスイ?ダイヤ?―
私の兄たちは一部始終を知っていたから、それでは子供たちからおかえしを、と、母の好みそうな指輪を兄妹それぞれが母に贈ったのである。
その度に母はからだ中でよろこびを表現しながら、まだまだ働き足りないので、働くために高価なアクセサリーは似合わないから、と、タンスにしまいこみ、夜更けて家中が寝入ってしまって静かになるころ、そっとそれらをひろげては、うれしそうに指にはめたり、はずしたり・・・・・。
そんな母の女性らしい仕草を垣間みるとき、実に眩しい光景として映ったものである。
そんなある日、私は母の元を訪れた。
二階で何やらさがしものをしている。
「どうかしたの?」と尋ねる私に、半べそかいたような顔をして、
「大切なもの、どこかに置き忘れてしまったの・・・」
「大切なものって・・・なあに?」
すかさず聞く私に母は右手をひらひらとさせながら、「ないのよ、一昨日晩から・・・」と涙声。
「言った通りでしょ。大切だ大切だとしまいこんで、たまにはめたりするからよ」
オパール?ヒスイ?ダイヤ?
多分、このうちのどれかを失くしたのだろう。
「どんなのを失くしたの?」と尋ねても、母の耳には届かない。
ただただ、失い失いと、いうだけなのだ。
私もしばらくの間一緒にさがしていた。
「どうしても見当らなければ、又何番目かの兄に買ってもらえば?」
私の言葉にはふり向きもせず母はさがし出すのに懸命であった。
その日、夜更けてから母から電話が入った。
「洗面台の上においてあったわ。おさわがせしてごめんなさい」
その時の様子を私は父に話した。父はそしらぬ顔して”あ、そう”のひと言だけだった。
私は気抜けがして、もう少し何とか父から言わせようと努めたが、次の瞬間には、もう父は次の仕事を手がけていた。
―「万が一のとき兄弟で」と父からことづかった木箱―
昭和五十二年、母は直腸がんで入院。
末期ですでに手のほどこしようがなかった。一生を共に過ごして来た最愛の伴侶に倒れられ、精神的なショックが大きかったのだろう。
日毎に口数が減っていった。
そんな折、父は私に大きな風呂敷包みを手渡して
「これはお父さんが万が一という時、八人の兄弟みんなに・・・・・」
とことづかって受け取ったそれは、大きな木箱でずっしりと重いものであった。
八人も兄弟がいて、どうして私があずかってしまったのか・・・。
その時は、何の意味もなく、あずかってしまった。
私はそれを父母の家の仏間の押入れの片隅にそっとしまいこむと、そのままそんなことも、そして、あずかったことすらも忘れてしまっていた。
母の病状は悪化の一途で苦痛の毎日であった。従って少しずつ変化していく父の様子など誰も気付きはしなかった。
ある土曜日の午後、母のお見舞いに何がいいだろうかと付き添う妹に聞くべく電話を入れた。
妹は父が自分の部屋に閉じこもったまま出て来てくれないのだと心配そうな声。
私は取るものも取りあえず、とんで行った。
うす暗くなりかけた部屋の片隅で新聞紙をひろげ、ボール紙にハサミを入れて一生懸命何かを創作中である。
私はそっと父の背後に近づいていて、その創作物ののぞきこんだ。
「なーんだ。ただ細長く刻んでいるだけ・・・・・」
と、思った。
そして妹を呼びそのことを告げた。妹はおっかなびっくり、へっぴり腰で
「全然お話してくれないのよ」と、父を指す。
「え?」と、大げさに驚いてみせる私─。
妹にそう言われてから私は父の背後から、そっと声をかけた。
「お・と・う・さ・ん・・・・・」「・・・・・」もう一度
「お・と・う・さ・ん・・・・・」「・・・・・」やはり返事がない。
妹は”そうでしょ。私の言う通りでしょ”と、今にも泣き出しそうな、不安気な目で私にすがってくる。
“いつからこんな風に・・・・・”と、私は押し殺したような声でつぶやく─。
―「お・と・う・さ・ん」父は手の届かない人になってしまったのか―
“おとうさん!おとうさんの大好物の五平もちよ。私が一生懸命に作って来たものなの。
お願いだから食べてよ。うれしそうな顔して私といっしょに食べてよ。おいしいぞ!って言ってよ・・・”
私は心の中でこう叫びたかった。父は無反応だ。
私は体中から血の気のひく思いだった。
私の頬に冷たいものがつたう。ただ黙って父の姿をみつめるだけだった。
この広い背。丸みのあるあったかな肩。子供の時分から、この父の厚くて広い背に、よくとびついておんぶをして貰ったものだ。
そのことは、まだほんの数年前まで続いていた。それなのにもうずい分と長い歳月が去ってしまったように思われる。
「お・と・う・さ・ん!」
私は、そっとそっと・・・・・もう一度だけ呼んでみた。
父からは相変わらず何の反応もなかった。心なしか耳だけがピクッと動いたような気がした。
それは神さまの戯れだったのかも知れなかった。
父の背後からそっとよりかかってみた。あったかい・・・・・。
ふとしたことから父が、とても遠くに行ってしまって、私たちにはもう手の届かない人になってしまっているような気がした。
いえ、その反面、そんな父が私たち子供のおぼつかない胸の中にきゅーんと入りこんできてくれたようで、とても身近な人になってしまったような・・・・・。
この二つが錯覚となって、私の脳裡をせわしく行きつもどりつしていた。
―ボール紙の指輪。母は父に向かって合掌する―
父がふーっと一息入れたような素ぶりを見せたのをきっかけに、私はからだを乗り出すようにして父の創作物をみた。
瞬間、私は息をのんだ。
父の掌の中に、丸い小さなものがころがっている。
よく見ると純金ならぬ、ボール紙で作られた指輪であった。
掌の中にころがるその指輪を目を細めてながめている父は、長い人生を、子育てのために働き通した頑強な父のいかめしさはなく、邪心のない仏さまの如く慈愛に満ち満ちていた。私はフーッと涙がこぼれそうになる。
そんな私など意識の外らしく、私の座っている横をつかつかと前に進み、夕闇の迫る部屋を斜めにつっきり母の伏す部屋へと急ぎ足である。私もいっしょに、あとに従った。
母親が寝ている赤ん坊を抱き起すような仕草で、父は母を抱きかかえるようにして起こしたかと思うと、その母の前に父は正座をするのであった。私はぐっと胸がつまった。
父の動作につられて、私までも、思わず正座をしてしまっていた。
おもむろに母の右手をひき、くすり指にボール紙で、今創りあげたばっかりの指輪をはめるのであった。
以前、父の手で創りあげられた純金の指輪の上に又、今度はボール紙で創られた指輪が母の指の上に重なった。
母は苦しみに顔をゆがめながら・・・・・、父に向かって合掌をするのであった。
母の頬を幾筋かの涙たつたって落ちた。父の背の陰で私は嗚咽していた。
父の働き通した一生は、たった一個の母のつぶした指輪で支えられていたのだ。
エメラルド、ヒスイ、ダイヤ・・・・・。
これらのどんな高価な指輪を息子たちから買って与えられても、父の血と汗で得たお金で、そして父自らの手で創られた
指輪の方が、母にとっては比較にならぬ程に高価なものであったのだ。
その昔、初めて父が手製の不恰好な指輪を母に”ありがとう”と言って返すのを見たとき、経済的にゆとりが出来たんだから、すばらしい宝石を買ってあげたらいいのに、と、娘心に大変なショックを受けた自分の、何と浅はかなことであったか・・・・・。
私は恥ずかしくて父の背で血の気をなくしていたものであった。
私はそっと部屋を出た。
すっかり夜の帳に包まれた庭先に立って、夫婦の愛、そして愛そのものの神髄を見た思いであった。
五十三年三月、明日消えるかも知れない母を残して、突然に父は他界した。
残された母は、父の棺をみてただただうつむいて無言の涙を流していた。
声が出ない程の悲しみに耐える母の姿を、私は凝視出来なかった。
父の死を境に母は意識を失っていった。
生はありとても、精神的に父と共に灯を消したかのように、二度と意識を戻さぬまま、父より半年後の九月二十五日、迎えられるようにして母は逝った。
―四十六年分の古新聞が教えてくれたこと―─日付はみんな九月二日―
一週間後、私は父が自分に万が一のことが起きた場合に、と、私に手渡したふろしき包みのことを思い出し、残された子供たちでその包みを開けてみた。
中身をみて八人が顔を見合わせて呆然としていた。
大切そうにしっかりと包まれた木箱から、どっさりと新聞紙が顔を出したのである。
上から下まで、木箱の中身はびっしりの新聞紙であった。
そのうち誰かがぽつりとつぶやく。
「これを包んだ時、若しかしたらおやじ・・・・・。痴呆症が始まっていたかも・・・・・」と─。
誰もが複雑な気もちのまま、再びその箱は、もとの棚の上におさめられてしまったのだ。
それから数年が経った。
私は父母の写真の前で合掌するたび、この夫婦にまつわる指輪のことを思い出した。
今、こうして在る私たちも、たった一個の指輪が育ててくれたような気がして頭が下がる思いなのである。
そんなとき、ふと私は父がどっさりと残した新聞紙のことを思い出していた。
“若しかしたら・・・・・”
私は次の瞬間固唾をのんでいた。
電話にとびついて妹のところにダイヤルを回していた。
「大至急、木箱の中の新聞紙をひっぱりだして頂戴!ひょっとしたら、日付が全部統一してない?」
私の異常な声に妹までつられてオロオロとして
「どれもこれも・・・・・、全部九月二日──」
それを聞いて私はその場にへなへなと座りこんでいた。
「ねえ、こんな古新聞がどうしたの?」受話器の向こうで妹の声が同じ言葉を繰り返していた。
大好きな父上へ
いつかお元気なころ、私に残して下すった新聞紙の意義が、たった今、その鍵が解けました。
母上の形見の指輪をどんな思いで金歯に変えられたことか・・・・・。
お察しをしながら、四十六年分の新聞をひもといています。
九月二日・・・・・が、その日なのですね。
直感でした。
私も父上の血を分けて頂いた子供でしたね。だって父上の心情が読めたんですもの。思いっきりほめて下さい。
父上の亡きあと、遺産相続のことで骨肉のあらそいなんて起こさぬように・・・・・、と。
母上の大切な小さな指輪一個で立派な八人が育った貴さを教えて下さったんですね。
さすが父上だと敬服致しました。
どんなに高価なダイヤの指輪よりも心のこもった手作りの指輪が素晴らしいのと同じように、どんな多額な遺産よりもこの古新聞の方が貴いのだという真ごころ─。
私たちは父母上のもとに生を受けたことの幸せを神に深く感謝したい気持ちで一杯です。
父上から頂いた沢山の財産、とうてい、私一代では使い切れません。
息子たちにゆずれば、そのご恩の分だけ・・・・・、ふやしてくれそうで、うれしい悲鳴です。
ほら、耳を澄ましてみて下さい。
聞こえますか?幼いころ、父上といっしょに吹いた葉笛の音─。
その音の下で、叱られてすねて佇む私がそこにいませんか・・・・・。潤子より
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